●cantabile
まるで鈴の音のような歌声だ。
初めて逢ったとき、そう言ってくれた先代様の言葉が嬉しかった。
だってそれは、歌以外になにも残されてないあたしが唯一、顔も知らない両親から貰った名前だったから。
だから、先代様が引き取りたいと申し出てくれたときも、あたしはふたつ返事で児童施設を飛び出した。
あたたかい寝床も、食事も、十分すぎるほど与えて貰ったけれど、あんなに望んでいたそれらはぜんぶ、霞んで見えた。
何もいらない。
望まれるまま、大好きな先代様のそばで歌っていればいい。大木に寄り添い囀る、小鳥のように。
『スズネ。さあ、歌っておくれ』
「はい、おとうさま」
あたしは大きく頷いて、車椅子に座り木陰で佇む先代様の許へと駆け寄った。
見渡せばどこまでも広がる青空と緑。草と花の匂いを身体いっぱいに吸い込んで、風に音を乗せる。
こうしていつまでも、いつまでも歌っていたい。
大切な、ただひとりの笑顔のために。
●fortfahren
「でも、その幸せは長くは続きませんでした」
程なくしてその老資産家の男は亡くなり、彼の養女であった二宮・鈴音(にのみや・すずね)もまた、彼の家督を継いだ息子の許へと移ったのだ。
「息子さんには一人娘がいました。鈴音さんと、同い年の」
先代に比べ、男は金に卑しく、そして盲目的に娘を愛していた。鈴音の稀有な美声に目をつけた男は、娘を歌手として売り出すことを思いつく。見目の良い娘を表に立たせ──歌は、鈴音の声を。
一躍有名となった娘。喝采を浴び、名誉と富を得た男だったが、成人を過ぎた娘は自動車事故でこの世を去ってしまう。
「同乗していた鈴音さんは、どうにか一命を取り留めたんですが……声を」
手術中に声帯を傷つけ声の出せなくなった鈴音を、男が見限るのは早かった。盛大な娘の葬儀が執り行なわれる中、鈴音は人知れず家を出る。引止める者も、見送る者も居ない雨の中を。
「今は……どうしてるんだ?」
話の区切りを見計らって発した多智花・叶(小学生神薙使い・dn0150)の問いに、小桜・エマ(中学生エクスブレイン・dn0080)はミルクティ色の髪の奥、春を思わせる淡緑の双眸を僅かに伏せた。
「街外れのこぢんまりとしたアパートで暮らしています。
ちいさな会社の事務勤めをしているので、生計に困っている様子はありません。ただ……」
起伏のない生活。
なによりも、『先代様』と『歌』、ふたつしかなかった大切なものをどちらも失った彼女の瞳はもう、光を映してはいない。ただ機械人形のように同じことを繰返す日々。そこを、シャドウに魅入られた。
「覚えていますか? エト・ケテラと名乗った、あの白いシャドウです」
et cetera──誰でもない、誰か。そう呼べば良いと言って姿を消したシャドウの娘が、再び現れた。
明確な目的は、未だ解らない。
けれど、この邂逅を避けるわけにもいかない。このままでは鈴音は、優しい悪夢に喰われてしまうのだから。
エクスブレインの娘は用意した地図を広げると、鈴音の家のある地点を指さしながら灼滅者たちを見渡した。
「このアパートの2階の一室で、鈴音さんは悪夢を見せられています」
周囲に人気はなく、通路に面した窓には鍵もかかっていないため、出入りに苦労はしないだろう。室内のベッドで寝ている鈴音を見つけたら、そのままソウルアクセスすれば良い。
悪夢の中にいるのは、ふたりだけだ。
果てのない青空と草原の一角、すこしだけ隆起した丘の上の一本の大木の許で、『先代様』と呼ばれていた老資産家の男のために歌を紡ぐ鈴音。
それは確かに在った過去であり、永遠に続けば良いと彼女が望んだ──そして、もう決して叶うことのない、唯一つの世界。
「その場に居る『先代様』は、エトが変身した姿です。……ただ、それを鈴音さんに伝えたとしても、決して受け入れはしないでしょう」
ダークネスにまつわる話は、世界の理を知らぬ者からすれば御伽噺のようなもの。
なによりも、鈴音本人が、真実を知ることを望んではいない。
『先代様』は、他の何者でもない紛うことなき、唯一の存在。
『先代様』が『先代様』でなくなったとき、彼女の見る幸福な夢もまた、終わりを告げる。
「勿論、鈴音さんが目覚めるようなことがあれば、エトも黙ってはいません」
灼滅者たちが悪夢の中へ入ってきただけであれば、すぐに攻撃をするようなことはないだろう。
しかし、鈴音への説得やエトへの攻撃、つまり鈴音の目覚めに繋がるような行為をすれば、忽ち妨害が入る。それが会話のみに留まるか、それとも戦闘へと発展するか。それは灼滅者たちの動き次第だ。
ひとたび戦闘となれば、敵はシャドウハンターと同様の攻撃手段を用いてくる。一撃は重く、そして体力も相応。
ただ、皆でかかれば勝機はある。劣勢と思わせるほどに追い詰めれば、すぐに撤退してゆくはずだ。
「鈴音さんへの対応をどうするかは……皆さんにお任せします」
掛ける言葉。行動。
その如何によって、鈴音の未来も変わる。
難しいと感じたのならば、すぐに眠らせるのも手のひとつだろう。
そうすれば、すべては優しい夢のままに終わるはずだ。
「どうか、お気をつけて」
すべてを語り終えた少女はそう仄かな微笑を見せると、薬指の指輪へ触れていた指をそっと、祈るように組んだ。
参加者 | |
---|---|
睦月・恵理(北の魔女・d00531) |
神薙・弥影(月喰み・d00714) |
天羽・桔平(信州の悠閑神風・d03549) |
泉・火華流(自意識過剰なハンマー美少女・d03827) |
近衛・一樹(創世のクリュエル・d10268) |
新沢・冬舞(夢綴・d12822) |
華表・穂乃佳(眠れる牡丹・d16958) |
天道・雛菊(天の光はすべて星・d22417) |
●鈴声の娘
目映さに目を閉じたのは、一瞬。
再び天道・雛菊(天の光はすべて星・d22417)が眼を開けた其処には、見渡すばかり続く青空と緑の大地があった。肌を撫で、髪を浚う風はどこまでも柔らかで優しい。
その風が運んできた歌声に、神薙・弥影(月喰み・d00714)は瞼を閉じた。
「……澄んだ綺麗な声」
耳に心地良く触れる音は、まさしく彼の老資産家が喩えた鈴の音を思わせるもの。
惹かれるように歩を進め、魅入られたように立ち尽くす。そうして歌の終わりとともに、灼滅者たちは丘の上へ、鈴音と老資産家の前へと赴いた。
「こんにちは……まるで鈴の音の様なお声ですね」
「はじめまして……なの……おうた……すきなの……です……?」
「あなたたちは……?」
「あ、僕らは怪しいものじゃないよ」
穏やかに語りかけた睦月・恵理(北の魔女・d00531)と華表・穂乃佳(眠れる牡丹・d16958)に、緩さの混じる独特の口調で天羽・桔平(信州の悠閑神風・d03549)も続く。
「この歌声に導かれてたどりつきました。ところでここはどこなのでしょうか?」
「ここ? ここは、びえいちょう。……だったよね? おとうさま」
『ああ、良く覚えていたね。鈴音』
車椅子に掛けた老人が、傍らの娘の頭を愛しむように撫でる。
美瑛町──北にある実在の地。つまり此処は抽象的な場所ではなく、やはり鈴音にとって実際にあった『真実』。近衛・一樹(創世のクリュエル・d10268)がそう思考を巡らせる傍ら、桔平が短く声を洩らす。
「お2人のジャマしてごめんちゃい♪ でも2人のキズナがちょっと素敵だったから混ぜてもらいたくて♪」
「邪魔じゃ、ないけど……」
それでも、身を明かしていないことに変わりはない。突如現れた闖入者に対し、身構えるなというのも無理があろう。怪訝な眼差しに気づいた新沢・冬舞(夢綴・d12822)が、咄嗟に動いた。
「俺は、以前先代に資金援助をして貰った学生なんだ」
「栞もいるよ、鈴音さん。覚えてる……かなあ?」
ひょっこりと顔を出した少女が『児童施設にいた頃の歌仲間』だと添えれば、
「勿論、忘れるわけない。元気そうで良かった。まだ歌ってるの?」
冬舞も栞も、語る身分相応の見目だったのが功を奏し、プラチナチケットによってどうにか疑念も晴らせたようだ。雛菊は心中で安堵すると、泉・火華流(自意識過剰なハンマー美少女・d03827)、多智花・叶(小学生神薙使い・dn0150)と共に輪の中で腰を下ろした。
●想い人
「先代様にお会いするのは初めてなんだ。鈴音、良ければ先代様の事を教えてくれないか?」
一休みと称して始まった、他愛もない雑談。
冬舞の問いに、鈴音は笑顔でひとつ頷いた。
「おとうさまはね、親のいないあたしを引き取ってくださったの」
「ん……やさしくて……たよりに……なったの……ですね……」
「うん!」
満面の笑顔で頷く鈴音を、穂乃佳もまた微笑みふわりと撫でる。
そして穏やかに微笑む老人。
けれど、その中身がシャドウであることを灼滅者たちは識っていた。ここにいる『先代』は偽物。それを鈴音に気づかせるために、罠を張る。
これは唯の談話ではない。そう見せかけた灼滅者たちの作戦であった。言葉を選び、話題を移し、さり気なく質問を重ねる。夢と現実。その矛盾や違和を浮かび上がらせるために。
恵理が話を振り、来栖が相槌を打つ。その流れに乗って、七音と莉央が一歩踏み込んだ質問を投げかけた。
「せや、『先代様』は鈴音ちゃんの歌のどんなとこが好きなんや?」
「それは俺も是非聞きたかったんです。『先代様』は彼女の歌を聴いてどう思いました?」
『そうだね……ひとつは、この鈴の音のような声だ。美しい以外の言葉が思い浮かばないほどにね。君もそう思わないかい?』
「おとうさまってば。そんなに褒められると恥ずかしいよ」
はにかみながら立ち上がり、老人の首許へと腕を回して抱きつく鈴音。この質問では駄目か。中々に襤褸を出さぬシャドウへ、今度は穂乃佳から別の問い。
「もきゅ……どうして……引き取ろうと……おもったの……です……?」
『養う力のある私が、身寄りのない鈴音と出逢った。理由なんてそれで十分だろう?』
これも駄目か。
一樹が瞼を伏せ、桔平がひとつ息を吐く。ならばと気づかれぬよう視線を交わした弥影と雛菊が、一歩踏み込んだ。
「ね、それなら、先代様から見てお孫さんが有名になるのってどう?」
『孫……?』
「ああ。貴方の孫……丁度、二宮と同い年の娘がいただろう? 彼女の歌声が二宮に極めて似ているのだが……」
己の孫娘が歌手としてデビューしたことを、識らぬはずはない。
だが、それはあくまでも『先代様』が亡くなったあとのこと。生前の時間軸であるこの夢の中の『先代様』がそのことを識っていたとなれば、その違和を膨らませて鈴音に気づかせることもできよう。
問い掛けた当人である雛菊が、弥影が、火華流たち誰もが密やかに息を飲み、答えを待つ。
『そうなのか? 鈴音』
「んー……美波ちゃんがゆうめいじんになったのは知らないなぁ。お歌も、あたしとは全然声が違うし……」
『そうかそうか。鈴音が言うのならそうなのだろうな』
──躱された。
無自覚ではない。明確な意思を持って此方の罠が回避されたのだと冬舞は悟る。
そも、相手は人の心に巣くうシャドウだ。獲物として選んだ相手の心の内や知識は粗方知り尽くしている。それに加え、さすがにこうも『先代様』としての知識を問われるような質問を重ねれば──都度、答えにくいという印象を与えるものなら尚更──余程の者でない限り、否応なく質問者の意図を感じるというもの。
結果、ひとたび警戒心を抱いたシャドウは、問われれば当たり障りなく答え、明確な答えを知らぬ話題はさり気なく鈴音に答えさせるという手法に出た。
そうして玲仁は得心する。
『誰でもない誰か』を名乗る割に、常に『相手にとって特別な人物』に成り代わるシャドウ。誰かの特別になることが望みかと思っていたが、少なくともこれだけは言える。
知恵のある己自身がキーパーソンを担うことで、『単なる配下に任せた際に起こりうる失敗』を回避している。
意図してのものか、それとも他意あってのことが功を奏しただけなのか。それは未だ知れずとも、どうやら無策でもないようだ。
さりとて、灼滅者側の策が尽きたのも確か。
途切れた会話をどうにか継がねばならぬ。誰も言葉を持ち得ない状況を察し、恵理が静かに口を開いた。
「私達、貴女を連れ戻しに来たんです」
「つれもどす……?」
向けられた真摯な眼差しに言葉の意味することを悟ったのか、瞳に、顔に不安を滲ませながら、幼い鈴音が問い返す。
「ええ。ここは天国じゃありません、無理に留まれば先代様も消えてしまうわ……覚えているんでしょう? 忘れられないくらい大切なお別れをしたこと」
「なに言ってるのか、あたしわかんない……!」
「貴方の中に、本当は何か引っかかる点があるのではないですか?」
眼を凝らし、どこか拒絶するように首を振る鈴音。
拠り所を失った辛さは、察することしか出来ない。
けれど、夢に籠もることの虚しさは知っているから。どうか、夢から醒めて欲しい。気づいて欲しい。弥影と同じように、一樹や桔平、雛菊、穂乃佳。誰もがそう願いながら、けれど押しつけにならぬようにと言葉をかける。
「良く考えてみて。本当にこの人は、すずねちゃんの大事な人? 逢いたくて逢いたくて、たまらなかった人?」
「むきゅ……ほんとうの……先代さんは……どう……おもう……かな……」
「──ほんとうのほんとうに、おとうさまだもん!」
澄んだ娘の声が、鋭利な刃物のように場の空気を断ち切った。冬舞の瞳に、唇を震わせる鈴音が映る。
「みんななに言ってるのかぜんぜんわかんない! ここにいるおとうさまがにせものってこと!? なら、ほんものを連れてきてみせてよ!!」
『鈴音。よしなさい』
昂ぶった娘を、老人の姿を介してシャドウが制止した。だって、と洩らした鈴音を見つめ、厳しい眼差しで首を横に振る。
『娘はどうやら疲れているようです。すみませんが、皆様。どうかお引き取り頂けませんか』
それは紛うことなく、言葉によるシャドウの『妨害』。
それでもまだ、シャドウが『先代様』の姿を保ち続けているのなら。此方も応じるまでだと、恵理はやんわりと遮った。
「優しいお心は存じております。ですが……もう時間なんです」
「どういう、こと……?」
聞き返した瞬間、過ぎる言葉。
──貴女を連れ戻しに来たんです。ここは天国じゃありません、無理に留まれば先代様も消えてしまう──。
「いや! あたしもおとうさまと一緒にいる!!」
両腕へと縋り付く娘を抱き留めると、恵理は静かに腰を落とした。鈴音と視線を合わせ、その心を掴むように見つめる。
「いけません、先代様を愛しているなら尚のことです……だって、娘が遺さなければ、優しいお父様が生きた証はこの世から消えてしまうんですよ」
「はなれなきゃいけないなら、あたしも一緒に消える! おとうさまのいない世界でなんて、あたしには──」
「意気地なしっ!!」
突然響いた強かな声に、雛菊や弥影、皆が弾かれたように振り向いた。
一瞬にして生まれた静寂の只中に佇むのは、それまで口を閉ざしていた火華流であった。
1年前に起こった、コルネリウス絡みの事件。そのとき関わったシャドウに身も心も斬り裂かれた記憶は、今もなお消し去ることができない。コルネリウスか件のシャドウへ己の意思と言葉をぶつけない限り、恐らくこの先もずっと。
だからこそ、鈴音の話を聞いて動かずにはいられなかった。
彼女と己を重ね見て、全く現れる気配のない怨敵へ繋がる道が拓ければと、この場に乗込んだのだ。
「一体貴方はいつまで思い出に浸っているつもりなのっ!? ……そうやってここで歌い続ける事が幸せなのっ!?」
「い、や……!! やめてっ……なんであたしを責めるの!?」
辛辣だと。
自覚はあるからこそ、今まで口を噤んでいた。
けれどもう、一度堰を切った言葉は止めようもなかった。エトという名の新たなシャドウにも向けた言葉を、火華流は叫ぶ。
「『誰かに作られた人生なんて、生きながら死んでる』のと変わらないじゃないっ!!」
瞬間。
明確な激しい感情を伴って、影がすべてを飲み込んだ。
●白い影
次の瞬間、一筋の帯へと収束したそれは、漆黒蝶の羽煌めかせながら火華流の胸を貫いた。
エトの動きに気づいて先手を取らんと動いた火華流。だが、使う心算であった4種のサイキックのいずれを使うか定めていなかったことが仇となり、それも叶わない。
霧散してゆく蝶たちに混じり、吹き飛ばされた先でどうと倒れる。それと同時、一気に肉薄したのは雛菊であった。異様なまでの霊気を孕んだ獲物で一太刀、エトの脚を強かに切りつける。
「エト・ケテラ、誰でもない誰か、か。だが星椿は君の味を覚えた。星椿にとって君は確かな存在だ」
無自覚な執着に気づかぬ娘の、囁き。
「ぽむ……行くの……です……」
「戦わずして終われればよかったのですが……しゃーないから相手したるわ!」
既に老人の姿を解いたエトへと、穂乃佳の抱いていた霊犬が飛び出し、一樹が即座に冷妖を纏う長槍を喚ぶ。忽ち布陣した冬舞の前で、桔平が愛刀を構える。突然のことに言葉を失っていた鈴音の前には、庇うように立ち塞がる莉央や七音、宗悟、采とその霊犬の姿。
『ヒトの欲望なんて、興味ない。好きにすればいい。……けど』
陽炎のように揺らぎながら、エトが身体を起こす。
いつもと変わらぬ骨張った四肢。白い襤褸布のようなワンピース。けれど、今まで一度たりとも感情を見せなかったその双眸に浮かぶのは──赫怒の炎。
『その欲を満たすために、わたしが踏み台にされるのは……反吐が出るほど、嫌い』
「なるほど、それも貴女の過去ですか?」
『……ッ!?』
良く通る凛とした女の声。怒りに混じる僅かな動揺を感じ取ったステラは、静かに歩み寄りながら、心の奥底を探るようにその深い海を思わせる瞳をエトへと向ける。知りたかった答えを得られるかもしれぬと、徹太も息を飲んだ。
「貴女の関わったソウルボードは、いずれも平和で穏やかでした」
ただ、それはどれも届かなかった場所。あるいは失われた場所。そんな夢ばかり。
「だから私はこう考えたんです。──貴女も、そんな過去があったのではないかと。そして、シャドウとなって救われたと思っているからこそ、彼女もまた救おうとしている」
違いますか?
ステラの眸を、金の瞳が真っ向から受け止める。もう怒りなどはない。いつもの無感情な、それでもどこか愁いを、諦めを、孕んだかのような。
『わたしは、識っている』
絶えきれぬほどの空腹を、寒さを、痛みを、恐怖を、絶望を、狂気を──死を。
長い長いあいだ、一番間近で見て来た娘。
掴まらぬようにと逃げ続けるも、ついぞ両足も壊死して自由を失った。そうして人知れず事切れるはずだった半身へと、手を伸ばしたのはいつのことだったか。
「それじゃあ、求めていた場所って……」
闘う意思を削がれたのか、弥影の零した言葉にエトは答えぬまま踵を返した。
だが、答えなぞ既に明かだ。
空腹、寒さ、痛み、恐怖、絶望、狂気、そして死。
それらのない場所。自由になれる場所。それが叶うとしたらもう、此処ソウルボードしかない。否、死の淵から生き延びるためには此処しかなかったと言うべきか。
「ねえ。ひとつだけ教えて。これは、すずねちゃんのため? それとも、エトちゃん自身のため?」
『……『わたし』は、『わたし』のために、動くだけ」
言葉通りに捉えるなら、己の満足のため。
だが、『わたし』が半身を、延いては似た境遇の者を意味するならば。直ぐに答えを出せぬ疑問を抱えたまま、桔平と、そして並び立つ一樹や穂乃佳、雛菊もまた、エトの背を見つめる。
「私は、幸福な夢を否定はしない。いえ、本当に他に道の無い人には優しい慰めだと思う」
まるで仮面と空を求める、無垢な魂。
そんな彼女に敬意を伝えたいと、恵理は思う。どんなときも、敢えて夢の世界を尊重する彼女を、『誰でもない』とは思えない。
「──待て、エト・ケテラ」
「エトさん、また会いに来ました」
背に届く都璃とサフィの声にエトは歩みを止めると、肩越しに視線を向けた。
『……懲りないね、あんたたち』
「前は名前を尋ねておいて名乗っていなかったからな。私は奥村都璃。武蔵坂学園の灼滅者だ」
「今日は『そこ』とかじゃなくて、名前覚えてくれないかなぁ」
『…………覚えてる』
仁奈。サフィ。都璃。確りと目を合わせて紡がれる名は、ほんのすこしだけエトに近づけたような気がして。
「人にとって本当の救いは、生きるを諦めることでは無いです。未来を、奪って欲しくない」
「そうだよ、エト」
未来は夢で終わらせるものじゃない。
幸せは、自分からそうなるものだから。
「エトが人を夢に誘うなら、何度でも止めにいくよ」
そう言った仁奈をしばらく見つめると、エトは再び灼滅者たちへと背を向けた。軽くひとつ地を蹴り上げて、まるでその背に羽根を持つかのような身軽さで高く跳躍する。
貴方が見せる夢は、いつまでも浸かっていたい微温湯のよう。
開いた穴を埋めるために、いくつもの穴を探している。
もっともっとあなたのことが知りたい。そう栞は思って止まない。
「──エト。この間は、名前を教えてくれてありがとう」
冬舞の声に、一度だけ、ほんのすこし振り向いた横顔。佇む弥影と雛菊の隣、仰ぎ見た影へと消えてゆく白に、ステラが乞う。
「エト・ケテラ。いいえ、ラ・オンブラ(la ombra)。もう一度、進むべき道を考えてはいただけないでしょうか」
善悪と正誤は別のもの。闇堕ちは、一見正しく見えたとしても実は誤った道に他ならない。
だから聞かせて欲しい。
貴女の心を。voce pulita──純粋で無垢なるその声を。
●微かな、夢
目覚めは不思議と、心穏やかだった。
見なくなって久しい夢。あの草原で、お父様とふたり過ごした想い出。
お父様が望んだから、利用されるだけだと知ってもなお歌っていられた。
歌だけが、私とお父様を繋ぐ唯一だったから。
でも、それすらも失って。ああ本当にお父様は遠くに行ってしまったんだと、ぽっかりと胸に空いた穴をどうしても埋めることができずにいた。
それでも、夢の欠片が教えてくれる。
生きることを、諦めてはいけないと。
生きていれば、お父様に出逢えたように、いつかまた誰かに出逢えるかもしれない。私を、愛してくれる人に。
──愛することも愛されることも知っている貴女が、世に居場所のない筈はない。
声を亡くしたのなら、奏でればいい。詠えばいい。そうして掬い上げた幸せを伝えていく。
胸の奥に在る、確かな記憶とぬくもり。
──その想い出、大切にしてください。無くしたら二度と、戻ってこないものですから。
私を愛してくれたお父様へ。
──見守ってる人がこんだけいるのは、夢だとしても覚えていてな。
そう私の幸せを願ってくれた、誰かへ。
ゆっくりと、ひとつずつ。
音に、言葉に、託して届けたい。
私は、幸せだよと。
作者:西宮チヒロ |
重傷:なし 死亡:なし 闇堕ち:なし |
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種類:
公開:2014年5月27日
難度:普通
参加:8人
結果:成功!
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得票:格好よかった 1/感動した 1/素敵だった 40/キャラが大事にされていた 1
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